移動式のブログ

ガジェット、アニメ、プログラミング、考えたことその他色々・・・特にこれといったテーマはないカオスなブログです。

独り言

特に理由もなくブログの管理ページを開いたが、特に書くネタが思い浮かばない。
何だかせっかくブログ書こうとしたのにパソコンの電源切って終わるというのはもったいないから適当な事でも書こうと思う。

俺は甘党かつ辛党だ。
タバスコを醤油感覚で大量に使うことがあるし、デスソースも、普通に使う。最近はあまり辛いの食べてないけど、そのうちまた食べたくなってデスソース買ってそうだ。
また、甘党でもある。バター塗った食パンに砂糖を振りかけて食べたり、チョコとか海外の甘すぎるお菓子とかが好きだ。甘いものを一日に一回は口にしないと気が済まない。
コーヒーも砂糖を何杯もいれて飲むことがある。しかし、ブラックコーヒーとか苦いコーヒーとかも好きで時々飲む。
マクドナルドでコーヒー頼む時に、砂糖を追加で頼み忘れて、一本しかスティックシュガーもらわなかったときは、そのまま砂糖なしで飲むことがある。
砂糖一本だけだと、大して甘くならない。甘いという快楽を得られないのに、砂糖入れるのももったいないので、取っておいて後で使う。


甘いもの、からいもの、苦いもの、どれも好きだから味に関してはオールマイティなのかもしれない。
しかし、嫌いな食材はある。エビとか貝とか、甲殻類みたいなものが食べられない。アレルギーではないけれど、美味しく感じられないし、その焼いたときの匂いとかも嗅いでいると気持ち悪くなることがある。嫌い以上アレルギー未満って感じかもしれない。エビは小学生の時以来、食べた記憶がない。
よく、生ガキを食べてる番組なんかがテレビで放送されるが、見ていると食欲がなくなってしまうぐらいだ。
甲殻類が好きな皆さん、ごめんなさい!


俺は、辛い甘い苦いしょっぱいしぶいすっぱいどの味の種類も好きだが、食べ物の香りとか歯ごたえとか風味とかを基準に好き嫌いがあるのだろう。

コミュニケーション能力について

コミュニケーション能力

コミュニケーション能力という言葉を聞いて脳内に適当に思い浮かべたことを並べてみるか。


まず、相手に高いコミュニケーション能力を求める人間はコミュニケーション能力が低い。
コミュ力が高いのなら、コミュ力の低い相手にも会わせられる。しかし、コミュ力の高さを相手に求めるということは、自分自身がうまく意思疎通できないから相手のコミュ力に依存せざるをえないんじゃないだろうか。
相手のコミュ力が低く感じる理由は、自分の伝える能力が低くて相手が理解できない。そして、自分の聞く能力が低くて相手の話を理解できないのだろう。
ということで、接している相手にコミュニケーション能力が無いなと感じたら、それは自分自身のコミュニケーション能力が低いという可能性がある。

コミュ力が高いということは、意思疎通、意思伝達する能力が高いから、相手が馬鹿にでも天才にでも通じる会話をすることが出来る。
逆に、コミュ力の高い相手としかコミュニケーションをとれないという人の場合は、特定の人間としか意思伝達ができないということになるので、コミュ力が低いということだ。


ときどき、企業が人材を採用するときにコミュニケーション能力を重視するみたいなことをネットとかで見かける。そういう会社って、コミュ力の高い人材しか扱えないダメな会社なのかな~って思ってしまう。役割の分担だとか、個人の適性とかを考えて、うまく人材を配分できるシステムがあるならどんな奴でも仕事はこなせると思う。
そもそもコミュ力が高ければ、ダメな奴にもわかるように仕事を教えることが出来るので、コミュ力高い人材を求めている企業は、人格的に破綻している人間が多いのでは?



あと、コミュニケーション能力と言われて、「会話する能力」みたいな漠然としたイメージがある気がするけど、普通に話す能力が低いのと、「コミュニケーション能力が低い」というのは別物だと思う。
話す」のは、コミュニケーション手段の一部に過ぎない。
「話す」能力がコミュ力だとしたら、の話したなにかのけがや病気で喋れなくなった人はみんなコミュニケーション能力がないのだろうか?自分でしゃべることができないからコミュ力が無いと言うのだろうか。喋れないが、筆談するとか、手話を使うとか、色々と意思疎通はできるじゃないか。

コミュニケーションとは、「話す」事に限らず、意思疎通である。話すことが出来なくても、わかりやすい文章や、感動する小説などを描くことが出来れば、それはそれで「コミュニケーション能力が高い」といえる。自分の考えていることをうまく表現できているからだ。

例えば、コーラが飲みたいなと思ったときに、口で言っても、紙で「コーラ飲みたい」と書いて相手に見せても、それを相手が理解できて、相手がコーラを持ってくることが出来れば意思の疎通ができたことになり、コミュニケーションが成立する。

文章書くのがうまいだけでなく、読解能力が高い、絵がうまい、聞き上手とかもコミュニケーション能力が高いといえるんじゃないかな。
俺はどの能力も中途半端だから困ったなぁ。

かなり無口だが、コミュ力の高い奴がいたな。
Sという人がいた。その人は基本的に無口で、無表情で、人と話しているよりも本見てたり、ゲームやって引きこもっていたほうが楽しいというような人だ。そして、基本的に一人でいる。
それだけ聞けば、コミュ力低そうに感じるかもしれない。しかし、彼は「聞き上手」なのだ。俺の適当に考えたつまらないストーリーを延々と聞き続けることが出来る。大抵の人は、時間の無駄に感じて話をそらそうとするのだが、彼は、よく聞いてくれるのだ。時々秀逸な返しをしてきたリ、面白いアドバイスを挟んできたりと、聞く能力が優れている。そして、それを理解して、行動する能力にも優れている。相手の言ったことを理解して、その通りに動くことができるというのも、コミュニケーション能力が優れていると言える。自分の伝えたい事が相手に伝わって初めて「コミュニケーションが成立した」といえるわけだから。
Sは、基本無口でも、話せばすごく適切な応答をしてくれるし、完全に受動的な人間というわけでもなく、自発的に面白い事をするようなときもたまにある。

俺はSより比較的よく話すが、くだらないことをべらべらと他人に浴びせているだけの俺と比べればSはコミュニケーション能力がはるかに高い。俺は雑音を発生させる能力が高いだけだ。
今頃、Sは元気にしてるかな。時々ラインでふざけてスタンプとか送りあってるけど最近返信こないな。仕事で忙しいだろうからそっとしておくか。

マクドナルド 具材多め

マックでハンバーガーを具材多めで注文した


ネットでマクドナルドのことを調べていたらハンバーガーの具材を無料で多めにできることが分かった。
ピクルス、玉ねぎ、ケチャップ、マスタードを多めにすることが出来る。実際に、具材多めで頼んだら、ピクルスが2枚になっていた。他の具材も、普段よりも少し多かった。
ハンバーガーを頼んで、「すべての具材多めでお願いいます」と言って、クーポン券で他のメニューを安く注文すれば、安い値段で満足できる食事をとれる。ハンバーガーではなく、ポテトの塩を多めにすることもできるみたい。次はポテトの塩多めを頼んでみようと思う。
チキンナゲットのソースは、無料で二つのソースをもらうことが出来る。マスタードかバーベキューで迷ったときは、二つとももらってみよう。

しかし、肉とかチーズバーガーのチーズとかは無料で多めにすることはできないと思う。肉多めにしたかったらダブルチーズバーガー買おう。

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↑この時は片方のピクルスが少し小さかった。残念!

ああああ

名前「ああああ」

自分で自由に名前を付けることが出来るゲームやってる人なら、一度はこの名前をキャラクターにつけたことあると思う。
同じ名前が登録できない場合は「あああい」とか「いいいい」みたいにするんじゃないだろうか。
俺は「ああああ」を主人公とか仲間のキャラにつけたことはある。

ふざけて「ああああ」とネットで検索してみたら、アンサイクロペディアでゲームにおける「ああああ」のことが書かれているので面白かった。
ああああ - アンサイクロペディア

勇者ああああは一体何人生み出されたのだろうか。

ゲームでうOことか下ネタ系の名前付けようとすると、「この名前は付けられません」みたいになることがある。
「うO こ」とか「うO。こ」みたいに、スペースをあけたり、何か目立たない記号とか挟んで、強引に下ネタ系の名前をキャラクターにつけた思い出がある。
今のゲームもこのわざ通用するのかな。でも主人公とか、よく使うキャラクターとかにこの名前付けるとかっこ悪くてモチベーションさがるので、どうでもいいキャラクターにしか変な名前は付けない。

例えばドラクエ4みたいに、使えるキャラクターが限定されているやつとかは下ネタみたいなそういう変な名前をつけようという考えは起きないけど、ドラクエ9みたいにキャラクターを自分で作り出せるゲームなら、そういうおふざけみたいなキャラクターを作ることはよくあるな。

人生は何気に短い

4月、新年度だ。

人生は短いなぁと身をもって実感する。
公園で桜が綺麗だった。「満開の桜」という言葉を聞いて、脳内で連想するような映像をそのまま具現化したような満開の桜だった。
リアルで桜が満開の景色も、あと何十回かしか見ることが出来ないと思えば、人生の短さがよくわかる。
ゲームの世界だったら、一体何回人生を繰り返したのだろうか。ゲームなら、何度でも人生をやり直すことが出来るというのに。


いつも思っていることがあるのだが、寿命が80年の人間でも、人生を楽しめる時間って40年すらないのではないか。
単純計算で、

寝ている時間を一日8時間とすると、

8×365×80=233600時間

233600÷24=9733日


9733÷365≒26年


睡眠時間だけで26年間は犠牲となる。


学校、仕事の時間を8時間とすると、

学校は小学校~高校まで、年間休日150日だとすると

215×8×12=20640時間
20640÷24=860日
よって、2年数か月

仕事を始めるのは高卒、大卒と、人それぞれ就職する時期が違うので、40年間としよう、
年間休日120日だとして、仕事の時間は、

8×245×40=78400時間
78400÷24≒3266日
3266日は、約9年間

仕事や学校に奪われる時間を合わせると、約12年間になる。


自分で完全に自由に利用できる時間は、80から、38年を引いて、約42年間となる。
42年と聞いて、長いと感じるかもしれないが、年を取ると体が不自由になって、寝たきりの生活になる可能性がある。
そうなると、老後の生活が決して自分の好きなことが自由にできる楽しい時間であるとは限らない。

さらに、通勤、通学時間など、細かいものやを合わせれば、もっと短くなるし、誰もが80歳まで生きられるわけではないので、人によってはもっと短くなるだろう。
例えば、60歳で死ぬ場合は実質的に人生が28年間しかないのと同じだ。
平均寿命はあくまでも「平均」であって、誰もが80年も90年も生きられるわけじゃない。人生は短い

就職先が良くて仕事が楽しかったり、自分自身が社長やフリーランスだったりすれば、
自分の自由に利用できる時間が奪われる感覚はほとんどないと思う。
しかし、やりたくない仕事とか、嫌な企業で働いている人の場合は、
20代から、65歳になるまでの間の約四十年(時間的には9年分ぐらい)の時間が奪われるようなもので、
人生の大半が苦痛な時間と感じるだろう。

さらに、学校が苦痛だと感じていて、大学も行きたくない大学に行ったとしたら、「人生って短い上に、クソだなぁ~」なんて感じてしまうのではないだろうか。
最近、ネット上で「社会人は40年の懲役」とか書いてあったのを思い出した。
選択次第で40年の懲役にも40年の天国にもなうる。
だけど、仕事の場合、嫌なら辞められる上に、休みの日は自由に動けるから「懲役」というほどきついものではないと思うが、的外れでもないと思う。



俺は何気なく一日を無駄に過ごしてしまうことがよくあるが、
結構もったいないなーと感じてしまう。
俺が80年生きるなら、自分に与えられた時間は実質、42年以下なわけだから。
さらに、その42年のうちいくらかはもう消費してしまったのだから、
そう多くの時間は残されていないことになる。
生き方次第で自分が自由に行動できる時間の合計はもっと長くすることはできるけど。

そう考えると、季節が変わるごとに、「あと何回、この季節を迎えることが出来るのだろうか」と考えてしまう。
真っ白な雪景色や、桜とか、季節にかかわるものを見るたびに、
「綺麗な景色を見ることが出来て幸せだなぁ」と思う。

実際に、あと50回ぐらい雪とか桜とかを見たら死ぬんだろうし。
死んだらこの世界に再び生まれてくるとも限らないし、自分としての人生を再び繰り返すことが出来る可能性はほぼ0じゃないだろうか。
死んだことないからわからないけど。



季節に関する景色でなくても、一日の終わりに上を見上げた時、
視界に広がるカクテルゼリーみたいなきれいなグラデーションの夕焼け空なんか見るだけでも感動するぐらいだ。
この綺麗なおいしそうな空をリアルタイムで見れる回数にも限りがあるんだなと思うと切なくなる。


何気ない日常の風景は、人間の人生の儚さを再認識させてくれるなぁと感じる。
短いからこそ、なんの変哲もない自然の風景だとかを見て感動するのだろう。
自分が不老不死だとしたら、生きていてる有難みが感じなくなって、そのうち地球にいること自体に飽きるだろうし。



それにしても、ずいぶんと年寄りじみたこと言っているなぁ。
「桜を見るたび、人の人制の儚さを実感するんだ」なんて言っていて、「あと何回この季節を迎えることが出来るのかなぁ」なんて、残りの人生が少ない人が言っているかのような感じだな。

どこかに、人生リセットボタン俺にくれる奴おらんかね。死ぬ直前で人生リセットすれば実質不死身だ。

単に自分の体が不老不死になっても、50億年後に太陽の寿命が来て、地球もろとも太陽系がなくなって宇宙空間に自分一人が永遠に取り残されるから大変そうだ。
死ぬ直前に人生リセットしてある意味不死身な状態のほうがその心配がなくて良い。
飽きたらそのまま死ぬこともできるし。

無気力が続く

無気力体験とその考察


無気力に取りつかれて何もやる気が出なくて困っている人間はおらんかね。


現在結構改善しているが、無気力状態になって結構時間がたってしまった。

憂鬱で無気力な感じがずっと続くし、ネガティブな思考が脳内を無意識のうちに駆け巡る。
うつ病なわけでもなく、死にたいわけでもない。だけど、全身が無気力でみなぎっていた。


宿題やったらだるくなった


心当たりからして、無気力のトリガーは「夏休みの宿題」だろう。
無気力になった当時、俺は高校生だったというのにとにかく机に向かって勉強する気が起きなかった。
本を読むことやパソコンをいじる事は普通にできたのに。

俺は宿題を休みの最初のほうにすべて終わらせるタイプだ。その後は、自分の解らないところの予習復習や遊ぶことに時間を充てる。しかし、その時の夏休みはそうはならなかった。いつも通り、宿題をすべて終わらせてもう自由だ―!という感じになっていた。そして、自分の勉強プランや、遊ぶことを考えていた。


しかし夏休みになって数週間後、登校日があるので、登校日に学校に行ったときに

ズドン!

目の前には大量の宿題だ。
しかもテキストの内容をうつして来いという無駄に手がつかれるだけの内容。




夏休み前に出してくれれば最速で終わらせるようにできたというのに。
ソフトの納期間近になってソフトの仕様変更を宣告されてデスマーチと休日出勤の地獄に突き落とされるブラック企業に入ってしまったエンジニアみたいな気分だった。

油断していた隙に、自分の心臓をピンポイントで貫かれたようなものだ。
ちょうど張り詰めた精神が緩んだタイミングで、精神的にものすごいダメージをうけた。


例えるならば、

水の中に潜って苦しくなり、意識を失いそうになったから顔を水から出した。
しかし、自分の顔めがけて大量の水が飛んできて呼吸できなくて死にかけるといったところだ。




この時を境に、俺の生活が少しづつ堕落していくことになる。
その宿題のせいで、自分が計画していた勉強もできなかった上に、宿題が終わらないかもしれない恐怖感に四六時中取りつかれて休みが楽しめなかった。


俺はやるときは真面目にやって、休む時は休む、楽しむ、といったメリハリのある行動をするタイプだ。なので、宿題というものは夏休みの初週には終わっている状態でなければ気持ちが悪い上に、休むことに全力を注ぐことができない。


そもそも、夏「休み」なんだから、宿題自体がなくてもいいんじゃないかと思うことが時々あった。学校で勉強をしているのだから、夏休みは普段できないような体験をしたり、遊んだり、勉強といったん離れて脳みそをクールダウンするためのものだと思う。

しかし、その休みの期間に宿題を出すというのなら「休み」である必要がないのではないか。「夏季自宅学習期間」といったほうが適切だと思う。




追加の宿題を終えたとき、夏休みは残り一週間ほどになっていた。この夏休みは本当に休んだ気がしない。

もうあまりにもだるくて、疲労がたまっていたものだから、残りの一週間ぐらいは何も考えずに自転車で遠く離れた本屋さんとかに行ってふらふらとしていた。そしてラノベとか漫画とかをブックオフで適当に買いあさって読んでいたら休みが終わっていた。

夏休みが終わっても、授業中に集中できなくて居眠りすることや絵をかいていてまともに授業を受けないことが多くなった。
家に帰ってからも、勉強をほぼ一切せずに、深夜の3時ぐらいまでお絵かきをしてて不健康的な生活習慣になった。


おかげで成績も右肩下がり。学年ほぼトップから、ズドンと下がっていき、赤点とるようになった。勉強もろくにせずに日付が変わった深夜3時ぐらいまで絵を描いていたり引きこもりみたいに一日中死体みたいに転がっていたことが響いたのだろう。
このざまだから、大学の試験にも落ちた。
ちょうどそのころは、勉強どころの話ではない。四六時中熱が出ているみたいにだるいし頭もボーっとしてまともに働かない。

精神的不調の辛さは傍から見たら、本人の甘えだとか、単にふざけているようにしか見えないかもしれないが、実際になってみたら「こんなにきつい事なのか」と実感する。




勉強する気も起きないし、動きたくないし、将来働きたくないという気持ちさえわいてきて、危機感を常に持っていた。しかし、体が重くて動くのが辛い上に頭もさえなくて、常に思考がぼんやりとしていて、判断力や思考力が鈍っている。どうにかしたいのにどうにもできない状態だ。まるでのび太の体に乗り移ったかのような気分だった。

ガソリン切れの車に乗っているような状況だ。動きたいのに動けない。ガソリンスタンドもない。自分でガソリンを作ることもできないし、家に帰ることができないようなやばい状況にたとえられる。
たとえ十分に眠ったとしても常に寝不足のときの寝起きみたいにだるいし集中力が全く続かない。


無気力をなくしたいのに、何やってもこの体の底からあふれ出てくる無気力はなくならない。全身がやる気のなさで満ちている状態で、だるさに脳みそを支配されているような気分だった。勉強しようにも、机に向かっただけで気持ち悪くなって、頭が痛くなって、受験勉強もまともにできない。なんとしてでも勉強しようとするが頭に全く入ってこない。単に本を読むことは楽しめたから、英語の勉強を兼ねて、英語で書かれた本を解読して遊ぶという工夫もした。


さらに精神的に少し病んでいたのか、好きな子に怪文書じみたものを送ってしまったり、自分をニート予備軍、ダメ人間と自分をネタにして語りまくって友達に「そこまで言わなくても・・・」と心配そうに言われたりと。


今でも無気力状態は完全にぬぐい切れてないなぁ。まだだるさが体に残っている。もしかしたら一生このだるさと付き合っていくことになるかも。

何もやる気がしない状態が続いたら、ホームレスにでもなってしまうのではないかという不安に苛まれるなぁ。
俺のような人間は社会不適合者なのだろう。


仲の良い、一緒にいて楽しい、助け合える、そんな友達は普通にいるが、「自分に近い人間レベル」のダメ人間を俺はいまだかつて見たことがない。
時々自分自身が、周りの人間と同じ「人間」という生物なのかどうか疑わしくなることがある。

しかし、自分自身の精神的な性質を知ることが出来たのは良いことだ。


脳の最適化と無気力

恐らく、脳内で宿題によって「無気力の原因となった苦痛」と「勉強」が関連付けられてしまって、無意識のうちに脳みそが拒絶反応を起こしているのだろう。
この状態は、自分の無意識の領域で起こっていたものだと思われるので、そう簡単にどうにかできるようなものではなかったのだろう。脳みそが勝手に反応するのだから。
そのため、ペンを持つことに変わりないのに絵を描くことは楽しかったし、文字を見ることに変わりはないのに本は読めた。なぜなら読書や絵描きは「苦痛」と関連付けられていないからだ。
「テスト」や「受験」のためにやる学校の勉強が苦痛と関連付けられているに過ぎないので、「自主的に興味関心を示して行う」勉強に対する意欲はあった。そのため、「読書」はできたのかもしれない。

例えば、さっき挙げたように「英語」を「テストや受験勉強」のために行うのは「苦痛」と関連付けられているが、「なんて書いてあるのかわからない暗号を解読する遊び」として英語の本を解読していくのは楽しいということだ。もちろん「教科書や参考書」は「テストや受験勉強」に関連付けられているので、読んでいても微妙だったが。


また、「無気力」は

「苦労して大量の宿題をこなしたものの、全然頭に入らなかった。しかし、自分自身で自主的に勉強したときは、その宿題よりもはるかに少ない勉強量で記憶に焼き付けることができた。よって、やみくもに量だけこなして努力することは無駄であり、適切な手順でやれば努力しなくても適当にやっても結果は出せる。つまり、努力や頑張りは無意味である。」

と脳みそが判断してしまったからだと思われる。

そのため、脳みそが心身の消費エネルギーを節約してエネルギー効率を高めるために「努力」を「エネルギーの消耗が激しく、無駄な機能」と判断してしまい、その機能を停止させたのだと思う。

つまり、脳の働きが脳に都合が良いように最適化されたということだ。
俺の脳みそは性能が悪いのか、大きな負荷に耐えられないようだ。

脳は、脳にかかる負担が軽くなるように自動的に環境に適応してしまうのだろう。

しかし、「努力」は決して無駄なことでは無い。「方向性の正しい努力」は良い結果を残すものだ。

このことから、「無気力」を改善する手っ取り早い方法は「面白いと思うことをひたすらやって成功体験を積み重ねる」ことである。
そうすることによって、「何かの目標のために集中して取り組むと良いことが起こる」と考えるようになり少しづつ努力をする感覚を取り戻していけるようになる。

または、無人島に行って三年間ぐらいサバイバル生活をするような常に死と隣り合わせな環境に身をおけば、無気力などなくなる。
しかし、この方法で死んでしまっては元も子もないので相当意識の高い人にしかお勧めできない。