移動式のブログ

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今が永遠に続けばいいのに?時間が止まればいいのに?

時間停止、不老不死、人生無限ループ


高校時代の時の話。
ある日の放課後に、好きな人と一緒にだらだらと話していて、幸福な気分に浸っていた。「この今が永遠に続けばいいのに」とか「時間が止まればいいのに」とでも思いたくなるような気分だった。

しかし、本当に「今が永遠に」続いたらどうなるのだろうか。

例えば、俺が2000年1月1日の17時から18時まで、好きな人「A」と一緒に話をするとしよう。
もし、言葉の通り、「今が永遠に」続くとしたら、2000年1月1日の17~18時が無限ループすることになるか、または、時間が停止することになる。

もし、自分とAの記憶がリセットされずに、永遠にその時間が繰り返されたらどんな気分になるのだろうか。

確かに、すごく楽しい時間なのかもしれない。しかし、全く同じことが100回、一億回、1兆回・・・∞回と続いたら、自分が生きていることに飽きてきてくることになるのだろうか。
もし、飽きてきたら、自然と死を欲するようになるのだろうか。
または、全く同じことの繰り返しが当たり前の日常となって、なんの疑問も持たなくなるのだろうか。

しかし、一つ思うことは、今回の例、「好きな人と一緒にいて幸福な気分に浸っていた」が永遠に続くことは、あまり悪いことでは無い。

もし、人間が、寿命を迎えて、死んだとしたら、その死んだ人はその後、どんな目に合うのだろうか。
自分たちが、地球に人間として生まれてきたということは、自分が、少し昔の地球にいる「奴隷になる人」や「ホロコーストの犠牲者になる人」として生まれてくる確率もあったということだ。

つまり、自分が死んだとして、再び人間として生まれてくるとしたら、その「奴隷」とかとして生まれてくる可能性もあるうえに、もっとひどい境遇に生まれてくる可能性も否定できないということだ。例えば、全く違う次元の謎の生命体として生まれ変わって、人間が味わう苦痛の何兆倍もの苦痛を与えられるような境遇に置かれる可能性も0ではない。

また、人間は死んだ後に、何も感じることがなく、死後の世界もなく、完全に「無」になるとしたら、楽しいか苦痛かということも感じられなくなるので、少なくとも「苦痛」ではない時間が永遠に続くのは「無」になるよりもましな事なのかもしれない。

そう考えると、「今が永遠に続く」ことは、退屈になる可能性はあっても、決して不幸なことでは無い。むしろ、ラッキーな事なのかもしれない。自分が死んだ後に待ち受けている可能性のある最悪のケースから永遠に逃れることが出来るからだ。


また、本当に「時間が止まったら」どうなるのだろう。

自分の時間だけが動いていて、周りの時間が止まってしまったら、誰とも話すことが出来ないし、かなり孤独な状態になりそうだ。
しかし食料の心配はいらない。
時間が止まると、食料の生産も止まってそのうち自分の食べるものがなくなって自給自足せざるを得ないのかもしれないが、「時間が止まっている」ので、食べ物が腐ることは無い。菌が増殖するようなことは無い。しかし、自分だけ時間が動いていて、周りの物の時間がすべて止まっている状況なんてあり得るのだろうか。さらに、時間が止まている食べ物を食べることが出来るのだろうか。よくわからない。

さらに、自分以外の時間が止まったとしたら、自分は時間が進んでいるので、寿命が来てそのうち死んでしまう。
誰とも話すことがなく、時間の止まった地球でただ一人孤独にさまようだけの人生になりそうだ。


また、自分自身の時間も止まったらどうなるのだろうか。自分自身の時間も止まったとしたら、自分の脳の活動も止まるので、「楽しい」とか「つまらない」とか感じられなくなる。自分の意識自体がなくなって、永遠に寝ているような状態なんじゃないだろうか。

「時間が止まればいいのに」だと、自分の脳の活動もていしすることになって、永遠の眠りにつく。
つまり「死んでいる」みたいな状態ということだ。