精神的エネルギー保存の法則
(死ぬことの不幸度)-(生きている幸福度)=0
例えば、嫌な事ばかりあって、不幸な思いをしている人間は不幸ではない。
そして、自分の望むものは何でも手に入る楽しい生活を送っている人間は幸せであるとは限らない。
生きている間に幸せだと、死にたくなくなる
どうして楽しい生活を送っている人間が幸せであるとは言えないのか
居心地がよくて、楽しい場所にいたくないと思う人間はほぼいないと思う。
自分の好きなものに囲まれている場所が苦痛を感じことはないだろう。
また、日曜日の夕方に憂鬱感が襲ってくる「さざえさん症候群」を味わう人は日本にたくさんいると思う。
その憂鬱も「楽しい休みが終わって、嫌な仕事(または学校)が始まる」と思い込んでいるから感じるわけである。
つまり、人生が楽しい人間にとって「死ぬことへの恐怖」は「日曜日の夕方の憂鬱」のようなものだ。
人生が楽しいと、その幸福を手放すのが惜しくなる。そのためできる事ならもっと生きていたいと欲する。
生きている間に不幸だと、死にたくなる
それなら逆に金曜日の夕方に「明日は休みである」というわくわくを感じる人は多いと思う。
そのわくわくは「嫌な仕事(や学校)が終わって明日から休みであるから、嫌な事から解放されて幸せ」と思うからだろう。
こちらは不幸な人にとっての「自殺」のようなものだ。
人生という苦行から逃れるために「死」という永遠の休日を求めてしまうのだ。
生きていることが苦痛なものだから、「死」へと逃れて苦痛から解放される。というのは自殺する理由のうち一つだろう。
つまり、自分から死んでしまうほど生きていることが辛いのだから、自殺した人にとって、「死」とは生きていることよりも幸せである状態であるといえる。
なぜなら、生きていることのほうが幸せであるのなら、死のうとは思わないからだ。死ぬのはいつでもできるが、生き返ることはできない。
それでもなお、死を欲するということは、生きていることよりも死んでいることのほうが楽であると判断したから自殺するのである。
精神を病んで正常な判断が出来なくなり、死ぬことに希望を見出してしまたり、苦痛から逃れるために自殺したりするというのはそれだ辛い思いをしたからである。
つまり、自分自身が不幸であると、死ぬことよりも生きていることが苦痛であるということだ。
上の2パターンの例からして、
生きている間に得た幸福は、その幸福を手放す苦痛によって相殺される
死ぬことへの恐怖は、生きていて味わう不幸から逃れられる幸福によって相殺される
ということだ。
これを、精神的エネルギー保存の法則と命名しよう。
人間の人生において、どれだけ幸福かを表す「幸福度」という度数が存在するとしたら以下のような式になる。
(死ぬことの不幸度)-(生きている幸福度)=0
また、これは、人間の様々な思い込みにおいて適用できる。
例えばこれは
(期待外れ度)-(期待度)=0
ある物事Aに期待すればするほど、物事Aの期待に対する結果の満足度が下がる。
つまり期待していたのに、期待通りにならなかったら不満を感じることを表している。
もとから良い結果など出るわけがないとあきらめていた場合、少しでも良い結果が出ると、期待していた時よりも相対的に結果に対する満足度が上がる。
つまり、大きな期待によって得られる高揚感は期待外れの悪い結果によって打ち消されて0になり、全然期待していなくて、マイナスだった期待は予想外の良い結果によって不信感が相殺されて、0になるということだ。
我が道を行け
どんなに不幸でも幸せでも、死ぬときにはそれら互いに相殺しあって0になる。
つまり、どんな生き方をしても同じ結果が待っているのだから、自分の納得のいくように好きなように生きていくことが良いということだ。
誰もがみんな同じ目的地に着くのであれば、目的地に着くまでの過程を自分の納得のいくものにしたほうが良い。
ホームレスでもニートでも社長でも、自分の好きなように生きていれば、それでよい。
人間はどんどん自分の好きなように自分勝手に生きていけばよい。
もちろん、自分の納得がいかない生き方をするのも、本人がそう望んでそうしているのならそれはそれで良い。
異性、物、お金、楽しい経験…欲しいものがあるなら飛びつこう
学校や仕事が嫌ならやめよう
生きているのが嫌で死ぬのも本人の自由だ
人間なんて法律を破らない範囲で自分のやりたいことをやりたいだけやればよい。
あなたにとってあなたの夢ほど大切なものなど存在しない、自分にとっても自分の夢よりも大切なものなんて存在しない。
「自分の夢よりも家族のほうが大切だ」とか「人のためになることをしたい」みたいなこと言う人は、「人のために何かする」事が夢なのだからそれは自分の夢であることに変わりはないのでそうすればよい。