移動式のブログ

ガジェット、アニメ、プログラミング、考えたことその他色々・・・特にこれといったテーマはないカオスなブログです。

もしも自分でなかったら

存在と無

今、俺は「移動式」という人間として生きているとする。
しかし、俺が「移動式」ではない可能性も存在していたのではと思う。
俺が生まれた瞬間に、俺が俺であるということが確定する。
しかし、俺が俺として生まれてくる前は、俺が今の俺以外の何かとして誕生する可能性もあるのではないか。
例えば、俺の誕生日には俺以外にも地球上で1000人の人間が生まれていたとした場合、俺は俺として生まれてくるまでは、1000人のうち誰として生まれてくるかどうかは決まっていない。「今の俺」として生まれてくる可能性は1000分の1であるということになる。
地球上に限らずに、別の惑星の何かとして誕生する可能性もあるだろうし、全く違う次元の人間が想像もできない何かとして誕生した可能性もある。
そう考えれば、この世に存在するもの全ては、自分である可能性があったのではないだろうか。
存在しているもの全ては自分であったかもしれない存在であり、自分は、自分以外の全てであったかもしれない存在であるのだ。

そう考えれば、他人の不幸や幸福も、自分の不幸や幸福のように感じるのではないだろうか。
喜んでいる人間を見たときに、自分はその人間として生まれてくる可能性もあったと考えれば、もしもの自分が喜んでいるので、嬉しくなるだろう。
そして、悲しんでいる人間を見たとき、はもしもの自分が悲しんでいるので悲しくなるだろう。
俺はさすがにそこまで大袈裟に考えることはないが、時々、「俺ははたまたま俺として生まれてきたが、他の人間として生まれてくる可能性もあったのでは」と考える。



そう考えると、この世が存在している時点で、自分が不幸であることは確定してしまう。
人間は自分が自分として生まれるまで誰として生まれるかが決定できないとする。
この場合は確率的に、奴隷や不幸な人間などとして誕生することもあるということになる。
つまり、自分が存在しているという事実は、自分は奴隷とか苦痛を味わう人間とかとして生まれてくる可能性にさらされていたということになる。
また、自分が死んだ後に、再びその苦痛を味わう人間として誕生する可能性にさらされるということになる。
人間は完全な「無」にならない限り、拷問される可能性や奴隷にされる可能性などから逃げることができないのではという考え方もできる。
そう考えると、永遠に寝ている時の状態が続くような「無」になることができれば不幸になることはないということになる。楽しいことも味わえなくなるが、苦痛も一切存在しないので、結果的に「不幸ではない」ということが確定する。
ここでいう「無になる」というのは死ぬという意味ではなく、死のその先のことを言っていて、「完全に存在そのものが消える」という意味である。
一切の存在が消えれば、生命や物質が発生することはないので、苦痛という概念も発生しない。しかし、もうすでに、万物は存在しているので、「無」を実現するのはほぼ不可能だろう。

しかし、死んだ後にまた何かとして誕生するのかとか、自分は自分以外の何かとして生まれてくる可能性があったとかは誰にもわからないし、考えたところで無駄だ。
考えていると面白いが、恐ろしい。