移動式のブログ

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緊張した時はみんなをじゃがいもだと思え!?

哲学的ゾンビと「じゃがいもだと思え」について

魂を持たない人間

哲学的ゾンビという概念がある。
簡単に言えば、「意識」を持たない人間のことだ。
宗教的に言えば、生きていて、物理的には普通の人間であるが、「魂」を持っていない人間のことである。

つまり、「他人」は人間として何の問題も無く機能しているので、他人に「私」のような意識があろうとなかろうと「私」に何の影響もないということだ。
ということは、他人が、「中身が空っぽで、意識を持たずに人間としての役割を完璧に演じている」可能性もあるということだ。


例えば、「私」以外の人間全員が、意識とか心を持っていないとしても「私」はその事実を知ることは現在のところ、できない。
脳みそを細かく解剖しても、「意識」とか「心」に相当するものは見ることができない。
ただ、ニューロンがあって、そのニューロンは、外部からの刺激に対してこのように反応して…みたいな表面的な仕組みは解明できても、意識を取り出して、その姿を見ることは不可能だ。
人間も、そこらへんに落ちている石ころも、どちらも単なる元素の塊に過ぎないので、人間に意識がなければ、石ころも人間も同じようなものなのではないか。
人間も高性能な仕組みを持っているだけで、石ころのように、単なる物と同じなのではないか。と考えられる。

緊張した時はみんなをじゃがいもだと思え

小学校などの何かの発表の時に、「緊張したらみんなをじゃがいもだと思えば良いのだ」みたいなことを言うようなことがあったが、「哲学的ゾンビ」という概念を理解できる年齢の人間なら、「緊張した時はみんなを哲学的ゾンビだと思えば良い」という考えも、ありなのでは?と思った。


「他人」が「私」と同じような意識や感情を持っていて、「変だな」とか「おかしい」とか思われるのが嫌な場合なら、そういった感覚を持たない「物」なら良いのである。
哲学的ゾンビは人間であるが、物のように、「私」にとっての「私」と同じような「意識」が発生しないので、「面白い」とか「悲しい」みたいな、感覚を持たない。

例え哲学的ゾンビが笑ったり泣いたりしていたとしても「脳というコンピュータ内のプログラムに従って動いている」だけなのである。
「私の話を聞いているみんな」が哲学的ゾンビであった場合、「私」がみんなの前で何かを発表して、それに対してみんなが「面白い」といったとしても、
それは人間という元素の塊が、「Aという刺激に対して『面白い』という音声を流すプログラム」を実行しているに過ぎないということである。

哲学的ゾンビは「私」にとっての「私」みたいな、「意識」つまり「魂」みたいなものを持っていない。
つまり、じゃがいも(植物にも意識を持っている可能性もあるようだが)に向かって話すことと、哲学的ゾンビに向かって話すことは、りんごに向かって話すことと、音声に反応するロボットに向かって話すことと同じようなことである。

もし、自分以外の全ての人間が哲学的ゾンビであるとわかっていた場合、全人類の見ている生放送で、全裸で踊ることになってもあまり「恥ずかしい」と感じることがないのでは?

ということで、「緊張した時はみんなを哲学的ゾンビだと思え」ということができる。






あなたは「あなた」が哲学的ゾンビでは無いということがわかっていると思います。
私も「私」が哲学的ゾンビではないことをわかっています。
しかし、あなたは「私」が哲学的ゾンビでないことをわかりませんし、
私も「あなた」が哲学的ゾンビでないかどうかわかりません。

意識とか魂って面白いですね。