移動式のブログ

ガジェット、アニメ、プログラミング、考えたことその他色々・・・特にこれといったテーマはないカオスなブログです。

コミュニケーション障害というものがある。


意思疎通ができない、または意思疎通をすることが困難な人間はいることだろう。
しかし、相手のことをコミュ障だと思ってしまう場合、自分自身がコミュ障の可能性もある。

他人と接していて、相手とコミュニケーションをとりにくいなと思うことはあるだろう。
それは特に珍しいことではない。
人それぞれ生きてきた環境によってそれぞれ考え方やコミュニケーション手段にクセがあるだろう。
例えば、アフリカのとある民族では、口の中に含んだ飲み物を相手に吹き付けることが客を歓迎する行為であるようなものもある。
そのことを知らない人間の感覚したら、犯罪級に失礼な行為かもしれないが、その民族にとっては相手に敬意を払っているのである。

相手は自分とは違うので予想外の反応をしても「こいつは異常である」と決めつけないで接することができる。
この能力は人間同士でコミュニケーションをとるのに重要な考え方の一つだろう。


相手をコミュ障だと感じた場合
相手と意思疎通が難しい場合、相手はコミュニケーション障害である可能性はある。
そうでないとしたら、相手が異なる文化の人間であるだろう。
それを知らずに相手をコミュニケーション障害と短絡的に定義してしまった自分自身の方の考え方に問題がある場合がある。

相手が異文化の人間である場合

例えば、相手の脳みそに障害があり、言語やその他のどんな手段を利用しても意思疎通ができないのなら仕方がない。
しかし、そうでないのに相手をコミュ障と感じる場合は、自分の予想通り、期待通りの反応を相手に求めているのではないだろうか。
自分の思い通り、期待通りの反応を相手に求めるというのは、自分独自のルールを勝手に相手に強制している可能性がある。
この人はこういう人間なのでこれはこれで良いのだと、相手を一人の人間として尊重していない。
または相手を知ろうとせずに「こいつは異常な人間である」と定義してしまうといった考えをしている可能性がある。

相手が別の何かしらのしょうがい者である場合

しかし、考え方が違う人間ではなく、相手が何かしらの障害を持っている場合もある。
聴覚障害で耳が聞こえない、または発達障害的な何かが原因で喋るのが苦手で話せない人間がいたとしても、文章で相手とやり取りができればそれはコミュニケーションが成立している。
しかし、「相手は耳が聞こえないのかもしれない」とか「相手は喋ったり聞いたりするのは苦手だけど文字でのやり取りは得意かもしれない」みたいな考え方をできずに、
「こいつは話せないのでコミュ障である」というのは間違いであるだろう。正確には相手はまた別の障害者であり、コミュニケーション障害であるのは自分自身であると言える。


自分のコミュニケーション手段が相手に通用しないからといって、相手をコミュ障と言うのは短絡的だ。
色々な方法でやり取りをしようともせず、自分の基準で相手のコミュニケーションに問題があると定義してしまう。
または相手を理解しようとしていない、または理解できなくても良いので「こういうものなんだろう」と認めようとしていないという可能性がある。