移動式のブログ

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ニートであることも社会貢献の一種

ニート 社会貢献

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静かなる反抗

労働条件の悪い企業はブラック企業に就職するぐらいなら、ニートでいたほうが、ある意味社会にもプラスな可能性がある。

日本は少子高齢社会なので、今後も労働人口が右肩下がりである可能性が高い。
外国人労働者やロボットなどを大量に利用しない限りほぼ確実に労働者は減る。

さらに、働ける能力がある人も働かないでニートになれば、さらに労働者人口の低下に拍車をかけることになるので、企業は人材を集めるのに苦労することになる。

このような状態になった場合、国内のほとんどの企業は人材不足になるので、求人数が多くなる。

日本中のどの企業も求人を出していて、労働者が大量にある企業の中から自由に選べる場合、労働条件の良い企業にたくさんの人材が集まる。

その結果、労働環境の悪い企業に人が集まらなくなったら、その企業は給料を上げたり休みを増やしたりと改善せざるを得なくなるし、それが出来ない企業はつぶれて、自然とブラック企業が消えていくだろう。

つまり、ニートは、働かないことによって日本の労働環境の改善に貢献していると言える。
ということで、ニートは社会貢献の一種である。
ニートは、労働者が低賃金で高いクオリティと長時間労働を要求される日本社会に対して、「働かない」という静かなる反抗をしているということだ。


ニートが増えるということは、働く人が減るということなので、企業は人を集めるために労働条件を良くする可能性がある。
しかし、国内の労働者が減った分だけ、外国人労働者をさらに大量に呼び込んで奴隷みたいに働かせる危険性もあるのが問題だ。

idoushiki.hatenablog.com
↑これは外国人労働者について書いた過去記事です。


しかし、外国人労働者の待遇が良くなった場合は、彼らにとっても良い事であると考える。
例えば発展途上国などから日本に出稼ぎに来れば、祖国よりも高い給料と技術力を得てくることが出来るので、外国人にとっても有益であるし、日本も労働力を確保できて有益なのでwin-winである。



働かない人が働かなければ働きたい人が働ける

世の中には、働くことが好きな人間もいる。また、どうしても金が必要で働かなければいけない人や、たくさん稼いで贅沢したい人もいる。
しかし、働きたくない人が嫌々働いたら、そのような人から仕事を奪うことになるだろう。

仕事に対して情熱がある人間や、働きたい人が働いたほうが仕事のクオリティも高くなるし、働いている本人も充実した人生を送ることが出来る。

しかし、働きたくない人やダメすぎる人が働いたら、本人も嫌な思いをするし。周りの人間も困らせることになるし、仕事のクオリティも低くなる可能性が高いので、百害あって一利なしだ。

これは、働きたくない人も不幸になるし、本当に働きたくてしょうがない人の幸せも奪ってしまうことになるので、良くないと思う。

だから、働くのが嫌な人や、ダメすぎる人は、必要最低限バイトするとか、ニートやるとか、自分の得意な分野で自営業やっていたほうが社会のためにも自分のためにもなるので良い。



ある意味、現代人も命を大切にしていない

例えば、過労死なんかも良い例で、命が大切ならば、仕事を辞めれば良いはずである。
命が大切であることを強く認識していれば、仕事よりも明らかに自分の命のほうが大切なので、仕事を辞めるほうを選ぶ可能性が高い。

しかし、仕事を辞めることによって、経済的に困ることになるのでやめられないという人もいるので、命が大切だとわっていても、過労死に追い込まれるパターンも想定できる。しかし、養う家族がいる場合、メインの労働力が死んでしまったらそれこそ家族を困らせるので、仕事を辞めても問題ないとおもわれる。生きていれば、また働くことが出来るが、死んだらもう何もできない。または生活保護を使えば良い。

仕事を辞めると、周りの人間に迷惑かかると思って仕事がやめられないという状況も想定できるが、他人に迷惑かける事なんて人間一人の命と比べればどうでも良い事だと思われる。人間一人の命のほうが他人に迷惑をかけないことよりもよっぽど大切だ。
仕事を辞めなければ死ぬのに、それを迷惑だと感じて非難するような人のために死ぬ必要はないと思う。
過労死を避けるために逃げたことを迷惑だと思うということは、「死ね」って言っているのと同じだ。
そういう人の命を軽視している人間のことは無視して良い。

しかし、「一生懸命働く」とか「あきらめない」みたいなことが美徳になっていて、「辛い事から逃げてはいけない」みたいな脅迫観念に呪われて自殺とか鬱とか過労死とかに追い込まれるような人もいるのだろう。
もう、命と比べれば仕事なんてクソだし、学校もゴミだし、人間はもっと自分自身に甘くなったほうが良いと思う。

鬱を他人事だと思わないほうが良い。自分はまだまだ努力が足りないななんて思って自分自身に鞭打って動いていたら本当に精神がやばくなる。
自分自身では死なないように心掛けていたって、死ぬことはありうる。

罪悪感に殺されるぐらいならすこしだけサイコパスになって罪悪感を殺してしまえ。そうすれば誰かに迷惑かけるとか考えずに躊躇なくニートデビューできる。



過労死やブラック企業などの問題は日本に限ったことでは無いが、日本人はいまだに第二次世界大戦から抜けられていないのではないか。
特攻隊でもないのだから死ぬレベルまで国や企業、組織のために自己を犠牲にする必要はないだろう。
むしろ、せっかく平和な時代になって、戦争で死ぬこともなくなったのだから、もうみんなだらけて自分の好きな事ばかりやっていれば良いと思う。「みんな好きな事ばかりやっていたら国が亡びる」みたいなこと言う人間もいるかもしれないが、それはないと思う。そう考えている人は本当に馬鹿だと思う。
idoushiki.hatenablog.com

この記事で、働きアリと働かないアリについての事を書いたが、アリの集団は必ず8割の働き者と2割のニートに分かれる。そして、怠け者のありだけを抽出した場合も、その怠け者の中でまた働き者と怠け者で別れるらしい。
人間もそれと同じようになるようで、社会的な生物の集団があったら怠け者はほぼ確実に一定数存在することになるので全員がニートになって社会が滅びるなんてことは無い。そもそも人間も、暇に耐えられない人間や無趣味な人間はニートやっていても飽きてきて、自然と働きだすし、仕事好きな人間もたくさんいる。だから、何か苦しいとか辛いとか思ったら逃げたほうが良い。

働かなくても生きていることは、人間の命そのものを肯定することになる


自分は、ニートは健全な社会の象徴であると思っている。
もし、日本が独裁国家で、「障害者や外国人は死刑」とか「国家に貢献しない人間は死刑」みたいなことを言い出したら、ニートは存在できない。


ニートが存在しているということは、働かなくても許されているつまり、個人の自由が尊重されているということである。
そのため、様々な考え方や生き方が許されるので生きやすい社会だと思うし、国民の自由が保障されているので健全な国家だと思う。

役に立たない人間も生きていることが許されているということは、人間の命そのものが大切にされていることだ。
国の経済発展に対する貢献度が低くても、生きていることが出来るということは働くこととか役に立つとか関係なく、人間の命は大切であるものとなっているからだ。
働かない人間が生きているという事実は、人間の命そのものが肯定されているということだ。

命は大切なのだから、働かないことに何のうしろめたさを感じる必要もないし、働く必要もない(贅沢したいならそれなりにたくさん働くべき)。


もし、働かない人間が日本から一人もいなくなったら、それこそ日本は危険な状態だと思う。
国民全員働かないと国が成り立たなくなったり、独裁国家になって、国民全員強制労働になったら大変である。
「働かない」という選択の自由が与えられていないということになるからだ。

つまり、ニートは平和の象徴だ。


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