移動式のブログ

ガジェット、アニメ、プログラミング、考えたことその他色々・・・特にこれといったテーマはないカオスなブログです。

人生は何気に短い

4月、新年度だ。

人生は短いなぁと身をもって実感する。
公園で桜が綺麗だった。「満開の桜」という言葉を聞いて、脳内で連想するような映像をそのまま具現化したような満開の桜だった。
リアルで桜が満開の景色も、あと何十回かしか見ることが出来ないと思えば、人生の短さがよくわかる。
ゲームの世界だったら、一体何回人生を繰り返したのだろうか。ゲームなら、何度でも人生をやり直すことが出来るというのに。


いつも思っていることがあるのだが、寿命が80年の人間でも、人生を楽しめる時間って40年すらないのではないか。
単純計算で、

寝ている時間を一日8時間とすると、

8×365×80=233600時間

233600÷24=9733日


9733÷365≒26年


睡眠時間だけで26年間は犠牲となる。


学校、仕事の時間を8時間とすると、

学校は小学校~高校まで、年間休日150日だとすると

215×8×12=20640時間
20640÷24=860日
よって、2年数か月

仕事を始めるのは高卒、大卒と、人それぞれ就職する時期が違うので、40年間としよう、
年間休日120日だとして、仕事の時間は、

8×245×40=78400時間
78400÷24≒3266日
3266日は、約9年間

仕事や学校に奪われる時間を合わせると、約12年間になる。


自分で完全に自由に利用できる時間は、80から、38年を引いて、約42年間となる。
42年と聞いて、長いと感じるかもしれないが、年を取ると体が不自由になって、寝たきりの生活になる可能性がある。
そうなると、老後の生活が決して自分の好きなことが自由にできる楽しい時間であるとは限らない。

さらに、通勤、通学時間など、細かいものやを合わせれば、もっと短くなるし、誰もが80歳まで生きられるわけではないので、人によってはもっと短くなるだろう。
例えば、60歳で死ぬ場合は実質的に人生が28年間しかないのと同じだ。
平均寿命はあくまでも「平均」であって、誰もが80年も90年も生きられるわけじゃない。人生は短い

就職先が良くて仕事が楽しかったり、自分自身が社長やフリーランスだったりすれば、
自分の自由に利用できる時間が奪われる感覚はほとんどないと思う。
しかし、やりたくない仕事とか、嫌な企業で働いている人の場合は、
20代から、65歳になるまでの間の約四十年(時間的には9年分ぐらい)の時間が奪われるようなもので、
人生の大半が苦痛な時間と感じるだろう。

さらに、学校が苦痛だと感じていて、大学も行きたくない大学に行ったとしたら、「人生って短い上に、クソだなぁ~」なんて感じてしまうのではないだろうか。
最近、ネット上で「社会人は40年の懲役」とか書いてあったのを思い出した。
選択次第で40年の懲役にも40年の天国にもなうる。
だけど、仕事の場合、嫌なら辞められる上に、休みの日は自由に動けるから「懲役」というほどきついものではないと思うが、的外れでもないと思う。



俺は何気なく一日を無駄に過ごしてしまうことがよくあるが、
結構もったいないなーと感じてしまう。
俺が80年生きるなら、自分に与えられた時間は実質、42年以下なわけだから。
さらに、その42年のうちいくらかはもう消費してしまったのだから、
そう多くの時間は残されていないことになる。
生き方次第で自分が自由に行動できる時間の合計はもっと長くすることはできるけど。

そう考えると、季節が変わるごとに、「あと何回、この季節を迎えることが出来るのだろうか」と考えてしまう。
真っ白な雪景色や、桜とか、季節にかかわるものを見るたびに、
「綺麗な景色を見ることが出来て幸せだなぁ」と思う。

実際に、あと50回ぐらい雪とか桜とかを見たら死ぬんだろうし。
死んだらこの世界に再び生まれてくるとも限らないし、自分としての人生を再び繰り返すことが出来る可能性はほぼ0じゃないだろうか。
死んだことないからわからないけど。



季節に関する景色でなくても、一日の終わりに上を見上げた時、
視界に広がるカクテルゼリーみたいなきれいなグラデーションの夕焼け空なんか見るだけでも感動するぐらいだ。
この綺麗なおいしそうな空をリアルタイムで見れる回数にも限りがあるんだなと思うと切なくなる。


何気ない日常の風景は、人間の人生の儚さを再認識させてくれるなぁと感じる。
短いからこそ、なんの変哲もない自然の風景だとかを見て感動するのだろう。
自分が不老不死だとしたら、生きていてる有難みが感じなくなって、そのうち地球にいること自体に飽きるだろうし。



それにしても、ずいぶんと年寄りじみたこと言っているなぁ。
「桜を見るたび、人の人制の儚さを実感するんだ」なんて言っていて、「あと何回この季節を迎えることが出来るのかなぁ」なんて、残りの人生が少ない人が言っているかのような感じだな。

どこかに、人生リセットボタン俺にくれる奴おらんかね。死ぬ直前で人生リセットすれば実質不死身だ。

単に自分の体が不老不死になっても、50億年後に太陽の寿命が来て、地球もろとも太陽系がなくなって宇宙空間に自分一人が永遠に取り残されるから大変そうだ。
死ぬ直前に人生リセットしてある意味不死身な状態のほうがその心配がなくて良い。
飽きたらそのまま死ぬこともできるし。

無気力が続く

無気力体験とその考察


無気力に取りつかれて何もやる気が出なくて困っている人間はおらんかね。


現在結構改善しているが、無気力状態になって結構時間がたってしまった。

憂鬱で無気力な感じがずっと続くし、ネガティブな思考が脳内を無意識のうちに駆け巡る。
うつ病なわけでもなく、死にたいわけでもない。だけど、全身が無気力でみなぎっていた。


宿題やったらだるくなった


心当たりからして、無気力のトリガーは「夏休みの宿題」だろう。
無気力になった当時、俺は高校生だったというのにとにかく机に向かって勉強する気が起きなかった。
本を読むことやパソコンをいじる事は普通にできたのに。

俺は宿題を休みの最初のほうにすべて終わらせるタイプだ。その後は、自分の解らないところの予習復習や遊ぶことに時間を充てる。しかし、その時の夏休みはそうはならなかった。いつも通り、宿題をすべて終わらせてもう自由だ―!という感じになっていた。そして、自分の勉強プランや、遊ぶことを考えていた。


しかし夏休みになって数週間後、登校日があるので、登校日に学校に行ったときに

ズドン!

目の前には大量の宿題だ。
しかもテキストの内容をうつして来いという無駄に手がつかれるだけの内容。




夏休み前に出してくれれば最速で終わらせるようにできたというのに。
ソフトの納期間近になってソフトの仕様変更を宣告されてデスマーチと休日出勤の地獄に突き落とされるブラック企業に入ってしまったエンジニアみたいな気分だった。

油断していた隙に、自分の心臓をピンポイントで貫かれたようなものだ。
ちょうど張り詰めた精神が緩んだタイミングで、精神的にものすごいダメージをうけた。


例えるならば、

水の中に潜って苦しくなり、意識を失いそうになったから顔を水から出した。
しかし、自分の顔めがけて大量の水が飛んできて呼吸できなくて死にかけるといったところだ。




この時を境に、俺の生活が少しづつ堕落していくことになる。
その宿題のせいで、自分が計画していた勉強もできなかった上に、宿題が終わらないかもしれない恐怖感に四六時中取りつかれて休みが楽しめなかった。


俺はやるときは真面目にやって、休む時は休む、楽しむ、といったメリハリのある行動をするタイプだ。なので、宿題というものは夏休みの初週には終わっている状態でなければ気持ちが悪い上に、休むことに全力を注ぐことができない。


そもそも、夏「休み」なんだから、宿題自体がなくてもいいんじゃないかと思うことが時々あった。学校で勉強をしているのだから、夏休みは普段できないような体験をしたり、遊んだり、勉強といったん離れて脳みそをクールダウンするためのものだと思う。

しかし、その休みの期間に宿題を出すというのなら「休み」である必要がないのではないか。「夏季自宅学習期間」といったほうが適切だと思う。




追加の宿題を終えたとき、夏休みは残り一週間ほどになっていた。この夏休みは本当に休んだ気がしない。

もうあまりにもだるくて、疲労がたまっていたものだから、残りの一週間ぐらいは何も考えずに自転車で遠く離れた本屋さんとかに行ってふらふらとしていた。そしてラノベとか漫画とかをブックオフで適当に買いあさって読んでいたら休みが終わっていた。

夏休みが終わっても、授業中に集中できなくて居眠りすることや絵をかいていてまともに授業を受けないことが多くなった。
家に帰ってからも、勉強をほぼ一切せずに、深夜の3時ぐらいまでお絵かきをしてて不健康的な生活習慣になった。


おかげで成績も右肩下がり。学年ほぼトップから、ズドンと下がっていき、赤点とるようになった。勉強もろくにせずに日付が変わった深夜3時ぐらいまで絵を描いていたり引きこもりみたいに一日中死体みたいに転がっていたことが響いたのだろう。
このざまだから、大学の試験にも落ちた。
ちょうどそのころは、勉強どころの話ではない。四六時中熱が出ているみたいにだるいし頭もボーっとしてまともに働かない。

精神的不調の辛さは傍から見たら、本人の甘えだとか、単にふざけているようにしか見えないかもしれないが、実際になってみたら「こんなにきつい事なのか」と実感する。




勉強する気も起きないし、動きたくないし、将来働きたくないという気持ちさえわいてきて、危機感を常に持っていた。しかし、体が重くて動くのが辛い上に頭もさえなくて、常に思考がぼんやりとしていて、判断力や思考力が鈍っている。どうにかしたいのにどうにもできない状態だ。まるでのび太の体に乗り移ったかのような気分だった。

ガソリン切れの車に乗っているような状況だ。動きたいのに動けない。ガソリンスタンドもない。自分でガソリンを作ることもできないし、家に帰ることができないようなやばい状況にたとえられる。
たとえ十分に眠ったとしても常に寝不足のときの寝起きみたいにだるいし集中力が全く続かない。


無気力をなくしたいのに、何やってもこの体の底からあふれ出てくる無気力はなくならない。全身がやる気のなさで満ちている状態で、だるさに脳みそを支配されているような気分だった。勉強しようにも、机に向かっただけで気持ち悪くなって、頭が痛くなって、受験勉強もまともにできない。なんとしてでも勉強しようとするが頭に全く入ってこない。単に本を読むことは楽しめたから、英語の勉強を兼ねて、英語で書かれた本を解読して遊ぶという工夫もした。


さらに精神的に少し病んでいたのか、好きな子に怪文書じみたものを送ってしまったり、自分をニート予備軍、ダメ人間と自分をネタにして語りまくって友達に「そこまで言わなくても・・・」と心配そうに言われたりと。


今でも無気力状態は完全にぬぐい切れてないなぁ。まだだるさが体に残っている。もしかしたら一生このだるさと付き合っていくことになるかも。

何もやる気がしない状態が続いたら、ホームレスにでもなってしまうのではないかという不安に苛まれるなぁ。
俺のような人間は社会不適合者なのだろう。


仲の良い、一緒にいて楽しい、助け合える、そんな友達は普通にいるが、「自分に近い人間レベル」のダメ人間を俺はいまだかつて見たことがない。
時々自分自身が、周りの人間と同じ「人間」という生物なのかどうか疑わしくなることがある。

しかし、自分自身の精神的な性質を知ることが出来たのは良いことだ。


脳の最適化と無気力

恐らく、脳内で宿題によって「無気力の原因となった苦痛」と「勉強」が関連付けられてしまって、無意識のうちに脳みそが拒絶反応を起こしているのだろう。
この状態は、自分の無意識の領域で起こっていたものだと思われるので、そう簡単にどうにかできるようなものではなかったのだろう。脳みそが勝手に反応するのだから。
そのため、ペンを持つことに変わりないのに絵を描くことは楽しかったし、文字を見ることに変わりはないのに本は読めた。なぜなら読書や絵描きは「苦痛」と関連付けられていないからだ。
「テスト」や「受験」のためにやる学校の勉強が苦痛と関連付けられているに過ぎないので、「自主的に興味関心を示して行う」勉強に対する意欲はあった。そのため、「読書」はできたのかもしれない。

例えば、さっき挙げたように「英語」を「テストや受験勉強」のために行うのは「苦痛」と関連付けられているが、「なんて書いてあるのかわからない暗号を解読する遊び」として英語の本を解読していくのは楽しいということだ。もちろん「教科書や参考書」は「テストや受験勉強」に関連付けられているので、読んでいても微妙だったが。


また、「無気力」は

「苦労して大量の宿題をこなしたものの、全然頭に入らなかった。しかし、自分自身で自主的に勉強したときは、その宿題よりもはるかに少ない勉強量で記憶に焼き付けることができた。よって、やみくもに量だけこなして努力することは無駄であり、適切な手順でやれば努力しなくても適当にやっても結果は出せる。つまり、努力や頑張りは無意味である。」

と脳みそが判断してしまったからだと思われる。

そのため、脳みそが心身の消費エネルギーを節約してエネルギー効率を高めるために「努力」を「エネルギーの消耗が激しく、無駄な機能」と判断してしまい、その機能を停止させたのだと思う。

つまり、脳の働きが脳に都合が良いように最適化されたということだ。
俺の脳みそは性能が悪いのか、大きな負荷に耐えられないようだ。

脳は、脳にかかる負担が軽くなるように自動的に環境に適応してしまうのだろう。

しかし、「努力」は決して無駄なことでは無い。「方向性の正しい努力」は良い結果を残すものだ。

このことから、「無気力」を改善する手っ取り早い方法は「面白いと思うことをひたすらやって成功体験を積み重ねる」ことである。
そうすることによって、「何かの目標のために集中して取り組むと良いことが起こる」と考えるようになり少しづつ努力をする感覚を取り戻していけるようになる。

または、無人島に行って三年間ぐらいサバイバル生活をするような常に死と隣り合わせな環境に身をおけば、無気力などなくなる。
しかし、この方法で死んでしまっては元も子もないので相当意識の高い人にしかお勧めできない。

音楽について

ボカロとクラシックが好きだ

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最近ボカロが好きになった。かいりきベア、家の裏庭でマンボウが死んでるp、みきとpあたりの曲をよく聴く。
じん(自然の敵p)の「カゲロウデイズ」を聴いたのがボカロにはまるきっかけだったなぁ。

それまでクラシック音楽マニアで現代の曲は好きなもの少なかったけど、今はボカロというジャンルが好きな音楽に加わった。しかし、よく考えてみると対照的だ。クラシック音楽という古い音楽と、ボカロという超最先端なハイテクな感じの音楽が好きなわけだから、どちらかというと相反する存在って感じだな。


クラシック音楽はピアノの曲が好きだ。特にショパンドビュッシー、あたりの曲が凄く好きだ。
ついでに、たまたま家にぼろい電子ピアノがあったおかげで、ピアノで曲を弾くことも好きになってきた。
無謀ながらショパンの「革命」OP10-12を弾けるようにするために練習しているが、左手がきつい。ピアノ素人に「革命」は難しい。
しかし、練習していて何気に手が動くようになってくるから、革命を弾くことは無理なことはない。ベートーベンの月光ソナタしかまともに弾ける曲がない趣味程度でピアノを弾いている俺の感覚からするとね。しかし、「上手く弾く」っていうのは難しい。
一日4時間ぐらい練習する時間が取れるなら、3か月ぐらいあれば一応形にはなりそうだと思う。しかし、それはむりそうだから、弾けるようになるのは来年かな・・・。楽しみでもあり、辛くもある。しかし、自分の意志でする努力って楽しいね。気が向いたら自分でピアノ弾いてYoutubeで公開してみるか。


ピアノを弾いてみたいけど難しそうだなと思っている人は、ベートーベンの月光ソナタ第一楽章を最初に弾いてみるのがお勧めだ。左手はほとんど動かさないうえに、右手はソドミソドミ・・・の単純な楽譜な割には、結構きれいな曲だ。

ショパン前奏曲第4番Prelude Op28-4もお勧め。この曲は右手はほとんど指を使わないし、楽譜も短いので単に弾くぶんには簡単だと思う。

ピアノ初心者 お勧めの曲


ベートーベンの月光ソナタ第一楽章www.youtube.com


ショパン前奏曲第4番Prelude Op28-4www.youtube.com

このブログの総記事数50超えた

ブログ投稿数50記事以上を達成

人によっては1000記事ぐらい余裕で1年以内に書けるのだろうが、文章能力の低い俺には一年で50ぐらいが限界だ。


今では、「アイディアを文章にする」という作業自体には慣れてきたので、今年はもっと書けるのかもしれない。
しかし、自分にしては上出来だと思う。時には自分で自分をほめてみよう。自画自賛だ。


自画自賛とか、自慢とかについて思うんだが、俺は自慢する人間は大歓迎だ。しかし、条件は、他人と比べないこと。
誰かが「俺の絵はうまいだろー」みたいに言っていても、それが実際に優れているのなら、それは紛れもない事実なのだから、何の嫌な要素も害もないわけだ。
むしろ、自分自身の得意な事とか成果とかを話してくれると、心を開いてくれたような自分を信用してくれているような気さえする。さらに、他人はどんな趣味とか能力とか持っているのかが知ることが出来て、新たな発見があるから楽しい時もある。

自慢話を聞くのは、相手の世界に入り込む招待状を受け取って、相手の心の中を冒険していくみたいで結構良いと思う。

逆に、めちゃくちゃ自分自身を下卑している人も面白い。
超優秀なのに「俺はだめだ」みたいにネガティブな事ばかりいっている人を見ていると、なんだか面白い。あと、自分の能力を過信しすぎるのも良くないのでこれはこれで良い。


しかし、(あいつよりは俺のほうが優れているぜ!)みたいなタイプの自慢人は好きではない。なんだか「他人は自分より劣っているのだ」と馬鹿にしているみたいでいやな奴だな~と思う。そのうえ、人それぞれ優れている能力のベクトルが違うんだから、自他間に優劣があるとは限らない。


自画自賛や自慢の話はここまでにしておいて、「ブログ」について話そう。
50記事記念だ。



俺がブログを始めたきっかけは、ゲームアプリの紹介記事を書いて、広告をそれに張って、お金を得ようと考えたからだ。

超単純な理由だね。

しかも、文章書くのが得意じゃないくせにそんな調子のいいことを考えていたのだ。なんだかおもしろい、バカだなー。
もちろんそのゲーム紹介ブログは大したアクセスもなく、一円すら稼げてない。
今でも、放置されたゲーム紹介ブログがある(ごくまれに更新してるけど)。


しかし、ずっとやっているうちに、別のことに興味が向いて、いったんブログから離れていた。そして再びブログを書いているうちに、文章を書くのにはまってしまった。
俺は文章を考えるのが遅いから、この記事でたかが50記事目だが、こんなに文章を書き続けたのは、このブログが初めてかもしれない。
自作の小説(黒歴史)を過去に書いたことがあるが総文字数はこのブログの足もとにも及ばないと思う。

最近ふと気づいた。「俺、知らないうちにブログを書くことが好きになっているのかもしれない」
ブログの質はおいておいて、継続的に何か自分で考えた文章を書き続けることが出来るようになっている。


やはり、誰からも強制されてないことってすごく楽しく感じるんだなぁ。と実感する。

文章書くのが好きでないのに(読むのはもとから好きだが)わざわざブログ書をいている。


嫌いなものでさえ、自発的に、(遊び感覚で)やってみたら思った以上に面白かった。
面白いと、自然と取り組む量も大きくなる。長く続ければ、能力も自然と上がっていって、誰でもある程度は実力が身についてくる。
俺は「強み」を「自発的」に「遊び」の中から見出すタイプなんだなと思った。

昔はすごく嫌いだったけど、自分で遊び感覚で取り組んでみたら、案外楽しくて今は自分の「最大の強み」になっている事も多い。



たいして役に立たない内容に終わったが、「遊ぶこと・楽しむこと」は凄いことであるといいたい。嫌いなものが好きになるんだから「すごーい」としか言いようがないな。
すごく楽しいことを見つけたら飽きが来るまで没頭しよう。

移動式

移動式という名前をつけた理由を後付けしてみた

場所や時間に縛られずに好きなように移動できるという生物本来の性質を取り戻したい。
自分にはそんな願望があるのではないかと思って「移動式」というハンドルネームを思いついた。
以前は「移動式生ごみ」というすこし汚そうなハンドルネームだったが。


人間は本来、どこにでも移動できる。

例えば日本からブラジルだろうが南極だろうが、物理的に行くことは可能だ。現代には飛行機があるし、昔でも船に乗れば行くことはできる。
そして、ロケットに乗ることができれば、宇宙に行くことだってできる。この世界はとてつもなく広い。時々自分の置かれている世界を意識してみると、思う以上にわくわくしてくる、夢や希望にあふれた世界(場所によっては地獄みたいな世界。紛争地帯で死ぬとか奴隷として生まれたときとか)なんだと思う。

大抵の人間は、狭い世界に生きていると思う。自分自身も死ぬほど狭い世界に生きているし、自分の住んでいる県にに隣接している都道府県でさえ行ったことがない場所がある。


別に誰から「行くな」と禁止されているわけでもない。そして、「法律で遠くに移動してはいけない」と決められているわけでもない。
それなのに、この「地球」というフィールドをまだ1%以下しか味わっていないなんてもったいない気がする。


同じ場所にずっと住み続けて死ぬ場合、ドラクエ8トラペッタの街(最初に主人公が行く町)を延々と散歩しているのと同じようなことだとさえ感じる。せっかく買ったゲームなのに、最初のステージしかプレイしないなんてもったいないし飽きてしまう。3000円で買ったゲームソフトに込められた3000のうちの2999円分ぐらいの「夢」捨てているんじゃないかと感じる。
実際に、現実世界はドラクエ8よりも広い。ドラクエ8のサヴエッラ大聖堂を見たことがある人はドイツのケルンにあるケルン大聖堂やフランスのアミアン大聖堂のような建物をみて、軽くデジャヴを感じると思う。実際のゴシック様式の教会からデザインのヒントを得たのだろうと思う。ゲームも馬鹿にできないね。

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↑東京の上野を散歩

生きていて、なんだかだるくなってきたり、精神的に疲れたりと、リフレッシュしたくなったら、何も考えずに適当に遠い場所に旅にでも行って、何か月もその周辺でふらふらしていたい衝動に駆られる。
最近、衝動的に無計画に東京の上野まで電車で行って、その周辺をぶらぶらしていたらなんとも爽快な気分で、精神的に楽になるような気分になったし、未開拓の土地に冒険に出かけるようなとてつもないわくわく感で心が満たされた。気分に任せて適当なところに大移動することの楽しさを再認識できた。

そのうち地球上を放浪したいなぁ・・・



学校と家を往復したり、バイト先、職場を往復するだけの延々と同じ動きを繰り返す産業用ロボットみたいな日常を送っていると、精神が腐ってきて、なにか気持ちの悪いもやもやした感覚が全身にたまってくる。そのうえ決められたスケジュールに従ているうちに、何も考えなくなってきて、ものすごく怠惰な生活になってくる。
C言語でいうwhile(1){}(←C言語でこれやると無限ループ)の{}内に閉じ込められたような気分だ。

夏休みみたいな長期休暇中は、なにも自分をしばる予定がない。例えば、宿題を初日付近で全部片付けてしまうので、余計なノイズもない。そして、寝転がってだらだらしているうちに、体と頭がさえてきて、自分の脳みそで日々の計画が次から次へと思いついていく。
教科書のずっと先の部分まで予習したり、出かけたり、体を鍛えたりと、かなりアクティブな生活になってくる。一日何十キロも自転車をこいで、ブックオフの100円コーナーの本をむさぼった良い思い出がある(図書館だと遠くまで返しに行く必要のでめんどくさいから、自分の本を家でゆっくり読みたい)。

その後、筋肉痛がひどくて少しの間動く気にならなかった。まさに「移動式」というアクティブな状況だ。体質的に病気なんじゃないかと心配になるほど疲れやすいからだらだらする時間もあるのだけれども。
しかし、夏休みが終わって時間がたつごとにその気力が右肩下がり。


人生には所々break;(c言語においてwhileなどのループから抜け出す)が必要だということだ。
while(1){}から抜け出さないと脳みそがオーバーヒートして焼け焦げる。
だからループを抜け出して、時々クールダウンする必要があるのだろう。


そもそも人間は、ずっと昔、赤道付近を目指して長い距離を移動したりとか、大陸の端から端まで移動してたわけだ。
俺には人類大移動とかアメリカのフロンティア時代のときの入植者たちのような冒険者的感覚が本能に染みついているのかもしれない。


俺は普段、「不動式」だ。精神的なキャパシタンスを消耗しきらないようにうまく省エネな活動を心掛けて、人並みに日常生活を送ることが出来る。
俺はこれといった縛りのない自由な環境にポーンと放り出されると、最初は電源OFFになるが、体力・精神力が回復すると、脳内で普段封印されている「移動式」が目覚めるのかもしれない。


封印されていた時の鬱憤を晴らすかのように消耗しきったエネルギーを吐き出して、「俺」に考える力や動く気力を与えてくるのだ。そして、長期休暇が終わると日を追うごとに決まりきった怠惰な時間の流れに飲み込まれて「不動式」へと変化してしまうのだろう。

ハンドルネームが移動式生ごみだった時がちょうどおれの「不動式」モードだったようだな。

これからも休むときは休み、学校(または会社)で勉強するとき(働くとき)はすると、メリハリをつけていきたいものだ。
だらだらと、頑張りすぎたりさぼりすぎたりしないように心掛けないとずっと何もやる気ないモードになってしまいそうだ。

ヴァルガビンゴの「犯罪特区」について

悪人は悪人による悪人のための地区に住めという発想

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このヴァルガビンゴという漫画1巻の最後のほうに出てくるが、悪人だけをまとめて、一つの地区に住まわせる犯罪特区という考えは、良いアイディアだと思う。


基本的に、悪いことをすると、刑務所に閉じ込められたリ、死刑になったりと、罰を受けることになる。そこから出られても、前科がつき、仕事を探すのにも苦労して、再び社会からドロップアウトして犯罪に走る。という悪循環が生まれてしまうように思われる。
犯罪者を社会復帰させたり、再び犯罪を起こさなようにすることが大切だ。

悪人を無理に善人にさせるのではなく、ありのままの悪を認めるべきだと思う。人間はロボットではないのだから、悪い人間や、変な人間がいることは当たり前のことだと思う。
本当に悪い人間は根本的に自分の考えを変えることは無い、または、生まれつき他人の痛みや苦しみを何とも思わないサイコパス的性質の人間もこの世には一定数いるのだから、そ
ういう人たちをしらみつぶしに善人に仕立て上げようとするなんて、非効率だと思う。
だからと言って、犯罪者はみんな死刑にするのもやりすぎだ。

それならいっそのこと、犯罪者だけで集まる場所を作ったほうが良い。そして、その領域に犯罪者を閉じ込めてあとは彼らの自由にやらせるというほうが良いのではないか。
犯罪者が刑務所で罰を与えたところで、そこから出所すれば再び犯罪を起こすことはできるわけだから、「犯罪特区」に閉じ込める。




単に、悪者をやっつけて終了!を繰り返すだけのヒーローものでなく、ブラックな感じが漂っていて、一巻目から胸ぐそが悪くなるような終わり方(主人公のおばあちゃんが・・・!)のこの漫画の今後に期待する。


最初のほうでキモイ怪人が読者に語りかけてきたり、ワンパンマンの世界みたいに「ヒーロー」が一般的な存在になっている感じも面白い。


ヴァルガビンゴ(1) (アフタヌーンコミックス)

電子部品

電子部品の紹介


せっかく電子部品が大量にあるのだから、写真付きで電子部品紹介でもするか。部品の性質とかほぼうろ覚えだから間違えてるかもしれないけど。

idoushiki.hatenablog.com


コンデンサ

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電気を貯めるための部品である。電気を貯められる量の単位はF(ファラド)
電気を貯めるだけでなく、信号内に含まれるノイズを取り除いたり、ACアダプタ内の交流を直流にする過程で、波形をきれいにするために使われている。



電解コンデンサ、セラミックコンデンサ、マイラコンデンサタンタル電解コンデンサなどの種類があり、極性のあるものとないものが存在する。
電解コンデンサには、極性が存在する。このラインがはいっているほうが-でそうでないほうが+である。
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左(黄緑色のやつ)がインダクタ右が抵抗器
見た目は似ているがきみどり色のは大抵インダクタ。





抵抗器

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電流を流れにくくする働きがある。抵抗値の単位はΩ(オーム)

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抵抗値のカラーコード読み方は上の図のようになっている。
上の図では、左から三番目の線は、乗数となっている。この場合、赤は「2」をあらわしているので、10の二乗ということになる。
上の図抵抗値は、1(茶)0(黒)×100(10二乗)=1000Ωとなる。



インダクタ
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インダクタ(コイル)。見た目が抵抗器みたいなものもある。単位は(H)ヘンリー。ヘンリーかぁ・・・ドラクエ5あたりににそんな名前のやついたなぁ。



トランジスタ

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信号を増幅する働きがある。簡単に言えば、ラジオなどで、受信した電波や音楽の音の波形を大きくして、聞こえやすくするみたいな感じ。
三本の足は、エミッタ、ベース、コレクタとそれぞれ呼び方がある。



ダイオード

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整流作用がある。整流とは簡単に言うと、交流を直流に直すことだ。交流は、+とーが常に入れ替わって流れている。(例えば50HZのコンセントの電流は、一秒間に50回+と-が入れ替わっていることになる)その交流電流を電池のようにプラスとマイナスが入れ替わらない、ずっと直流にすることを言う。

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しかし、ダイオードで整流しただけだと、極性の向きは変わらなくなるが、波形は波打っている。そのため、充電器などではコンデンサやインダクタなどで波形を整えて、さらにきれいな直流にしている。



交流と直流のイメージ図
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図の左は交流で、電流の向きが右から左、左から右、と変わり続けている。図の右は直流で、電流の向きがずっと一定である。
何気なく使っている家庭用電源は、一秒間の間に何度もプラスとマイナスが入れ替わっているという激しいものということだ。




さぁ、これを見ている君たちも、壊れた電子機器を分解してみよう!ここで紹介したような部品がたくさん出てくるよ!